『選択の達人』になってはいけない
唐突ですが、日本の場合、大学(受験)というのが教育や社会的評価の大きなキーになっています。
「どこの大学を目指すか」は、学校と生徒の最大のミッションでありモチベーションです。「どこの大学を出たか」は、その人の学力と努力のバロメーターになっています。
ところが、大学入試やその準備段階としての学校教育を見ると、面白いことに気づきます。
出題のレベルは「昔よりはるかに難しくなっている」と言われていますが、それは問題の求める知識領域(情報量)が広がっただけで、実は『考える力』という面では、あまり進歩がありません。
というか、知識偏重の反動で考える力が置き去りにされています(良質の学校はさすがに違いますが)。
選択式問題がそのいい例です。テストもゲームもネットショッピングも。。。子どもたちは、知らず知らずに「答えを選ぶ」達人になっていきます。
『考える』プロセスをざっくり大別してみると、下記のような感じでしょうか。
①「0を1にする」(アイデア ⇒コンセプト構築と着手)
②「1を3、4に変えていく」(試行錯誤 ⇒展開)
③「4を6、7にもっていく」(スケールとアドオン ⇒成長)
多くの選択式問題は、こうした部分を飛ばして「出来上がったものを比較する」作業になります。そこでは、①~③の「アレコレ考える」「いろいろな要素をつなぎ合わせて答えを作り出す」といった能力は問われません。
プレハブ住宅で言えば「完工チェック」ですらない、「ご近所との家比べ」みたいなものです。
ミント塾で10年ほど子どもたちの成長を見てきましたが、ここに来る子どもたちも同じです。ゲームの影響もあって選択の達人が増えています。そしてうまくいかなかったり、よく分からないものは「サッサと捨てる」(リセットする)習性が顕著になっています。
ただ、こうした「短絡的に正解を求める」風潮の中でも、「しっかり考える」「自分で答えを見つけ出す」ことのできる子もいます。これは小さいうちの教育環境(育て方)と、そこで身につく「独力で学ぶ姿勢」が大きく影響しているように思われます。
学校の教育とは別の場所でそういった機会を作ることは、経済的にも簡単ではないかもしれませんが、AIやシンギュラリティの進化していく未来では、そうした体験基盤が「使う人」と「使われる人」の差となって出てくるような気がします。
インターネット社会は、一見「条件反射的なスピードや対応」が求められるように思われがちですが、そこに至るまでのプロセスは「考える力がものを言う世界」と考えています。